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■ TMD 12/18/2002
いま日本でも議論が進み始めた戦域弾道ミサイル防衛が、じつは人類の行く末を左右しかねない危険をはらんでいるものであることを認識している人が、いったいどれほどいるのだろうと思うことがある。ここでは基本的なことだけ書いておくことにする。

戦域弾道ミサイル防衛というのはその名の通り、自国に対して放たれた弾道ミサイルを防御するためのシステムである。攻撃兵器ではない。あくまで防御のための兵器である。そしてまさに、そのことが一般の人たちの認識を甘くしている。

良かれ悪しかれ核兵器の抑止力によって20世紀の後半は「最終戦争」から免れてきた。核戦争は双方にとって破滅でしかないという認識が、為政者のギリギリの理性を支え、広島・長崎以降、核兵器の実戦使用を思いとどまらせてきた。そして核兵器使用という刃を突きつけられた状態でのいわゆる「恐怖の均衡」に疲れた当事者が、たがいに刃を突きつけ合ったまま、たがいの核戦力の削減のための努力をし始めたわけである。削減のプロセスは、こう考えて欲しい。互いに向け合った拳銃の引き金をとりあえず「イッセイノセ」ではずそう。次は互いのこめかみにあてた銃口の狙いを同時にはずそう。次はこめてある銃弾の数を減らしてゆこう。あたかもこのようにして核戦力の削減のための努力が数十年にわたって行われてきたのである。そしてそのプロセスはまだ中途である。冷戦構造の崩壊とともに核戦力は劇的に削減されたものの、いまだに人類を数度絶滅させるに足る能力を人類は捨ててはいない。

そのような状況の中に、戦域弾道ミサイル防衛システムが登場する。これが軍事関係者の思惑通りの力を発揮すると、当事者の一方が相手の核戦力を無力化することができる、ということになる。恐怖の均衡状態が一挙に失われる。引き金を引くことにかえって躊躇が無くなるだろう。またいままで積み重ねてきた核兵力削減の努力はすべて水泡に帰する可能性がある。すくなくとも戦域弾道ミサイル防衛が実戦配備された後の核兵力削減の手法は、相当に創造的かつ実効的なものであることが要求されるのである。いままでのプロセスは意味をなさない。はたしてアメリカがそんな煩瑣な手法をわざわざ採るだろうか。理想の盾のうちに守られた人々が、謙譲をもって世界平和に資するという保障がいったいどこにあるというのか。

核兵器の存在を前提とした恐怖の均衡が正しいとは思わない。しかし慌ててはいけない。ひとつずつひとつずつ、絡まった糸をほぐしてゆかなければならないのだ。どうもハリウッド的に黒白一刀両断にしてしまいたいと思う人々が、かの国には多すぎる。日本も東アジアの貧国が不埒な狼藉をこそこそとやっていることぐらいで、その流れに煽られるのは、不甲斐ないと言うものである。軍事オンチの平和主義は、かえって小事に右顧左眄し大事を誤る。しょうもないことである。
 

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