報道の自由は認められてしかるべきである。たとえば今回の報道に対して公権力が不快感を示したり、あるいは今後の報道に関して方向性を持たせるような何らかの発言なり操作なりが行われるのであれば、それに対して抵抗する論理として報道の自由を持ち出すことは極めて正当なことであると考える。
しかし報道の自由の範疇にあれば、何をしてもいいと考えるのなら、それは自らの倫理意識の欠如をさらしているにすぎない。具体的な状況のもとで報道という役割を担う自分たちが、いったい何に奉仕しているのかをもういちど考えなおしてみるべきだ。脅迫的な情報操作の片棒を担いで、抵抗する力のない個人の人生をふたたびズタズタにすることに手を貸すことが、報道の自由を盾に正当化されるのだとしたら、報道という職業そのものが、人間の幸福とは何の関係もないことを示してしまうことになる。人間の幸福とは無関係の報道など、いったいこの世に何の意味があるというのか。
公論にたてつく報道そのものに批判を加えるのは、言論を封殺する北と同じではないか、と編集委員の一人は言った。冗談ではない。いま人質を取った立てこもり犯人が、人質の喉元に刃を当てている。人質の家族は固唾をのんで中の状況を見つめている。犯人が言う。家族も自分の支配下に戻せと。人質もその家族に向かって、戻ってきてと懇願する。こういう切羽詰まった具体的な状況の中で、人質のコントロールされた言辞を家族に伝えることは、犯人の、家族に対する脅迫行為に手を貸していることと同じなのだ。それが報道の自由という範疇に入るとしても、報道倫理という観点からすれば批判を受けて当然の行為である。誘拐事件の報道管制という自主規制がかかる状況とさほど変わりはないのだと何故認識できないのか。北はまだ全国家をあげて、あの拉致行為に対して反省をしているわけではない。信頼するに足るほどのオープンな振る舞いをしているわけではない。再犯の可能性や自暴自棄になる可能性を廃除できるほど事態がよい方向に進んでいると考えることができる状況ではないのだ。
それとも「週刊金曜日」は、北にいる帰国者の家族の将来にわたる身の安全を保証する能力がある、とでも言うのか。リスクを負うのは、国家でもなければ報道機関でもない。この状況の中でリスクを負っているのは誰なのか。考えることぐらいはできるだろう。・・・ミニコミ誌に毛が生えた程度の媒体だからといって許される問題ではない。権利意識は亡者の論理であり、倫理意識は自律性の問題である。報道の使命は人々の幸福にあるはずだ。
小学生をさとすような言い方をしなければならないことに、呆然とする。かつてジャーナリズムに幻滅を感じ、そこから距離を置いた日々のことをまたもや思い出さされてしまった。
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