いつものことなので今更どうという感想もないが、アメリカという国は何か事を起こそうとする時に、必ず相手国の「自尊心」が持っているエネルギーの大きさについて読み違える。自尊心というのは論理的産物ではなく、また、それに伴う判断が正しいか正しくないかの評価を受け付けないたぐいのものなのであって、説得や強圧によってどうこうなるものではない。ましてや利害でつるような仕業で相手の譲歩を引き出そうとするやり方をしてしまえば、かえってその自尊心から来る反発は強まる。
文化相対主義という、20世紀になって人類がはじめて確立しえた多様性に配慮する互譲精神は、もはや国際問題解決のための基本的指針と言っていいものなのだが、じつはこの考え方はアメリカにおける文化人類学研究者たちのあいだで成立した思想であった。このことは一見奇妙なことに思える。が、個人や民族レベルの多様性の認識と、政治的に単数の意思に収束してゆく力というのは二律背反ではない。時と場所を同じくして同居しうるもの。民主主義というのは、この「多」と「単」とをつなぐ架け橋であって、民主主義国の盟主を自認するアメリカならではの両極端である、ということもできる。
21世紀は、こんなことを・・・ほんとうにこんなことをしている場合ではないはずであった。それは20世紀の終わりの10年間に認識を深めたはずなのである。あの日以来、21世紀のテーマが歪められてしまった。いやただ一人の男の頭の中では、まっすぐ突き進んでいるだけのことなのかも知れないが、それを正当化してしまいかねない要素は確かに現れてしまっている。・・・この文明そのものを維持できるのか、という人類的課題は、放置されたまま。
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